形成のあそび ―ストアハウスカンパニー『箱』

 

 ストアハウスカンパニー『箱』(2015年1月23日観劇)は、「あそび」についての上演である。7人の男女が、90cm×30cm×30cmの木製の「箱」を、黙々と動かし続ける。20個の「箱」によって、時に抽象的な形象が、時に具体的な橋や門のような建造物が、幾度となく形成されては解体される。作られるのは物ばかりではない。個々の「箱」の間に現れる空間ないし余白――「あそび」――が、様々な意味を持って提示される。

 

 漢字学者の白川静によれば、「遊」とは、旗を立て贄を持って道をゆく象形に由来する。「遊行」「遊民」「遊覧」といった語が示すように、「あそび」には確たる目的も道筋も存在しない。ただ日常を逸脱し、未知のものの中に進んで行く運動性があるばかりである。松岡正剛は、そうした運動性を「境界をまたぐことであり、自身の内なる遊牧的な動向に忠実であろうとしたこと」と表現する。私達は、「あそび」によって束の間日常の連関を離れ、不確かな揺らぎに身を任せる事ができるのである。

 

 こうした「あそび」の持つ不確かな魅力は、形成と解体という相反する二つの運動性によってもたらされる。例えば、通常「教養小説」と訳されるドイツ語のBildungsromanは、bildenすなわち「形成する」という動詞に基づく。「教養小説」とは、主人公が様々な経験を積み、人格を形成していく成長の物語とされるが、その際に重要なのは、主人公が遍歴すなわち「遊行」や「遊学」を行う事である。教養/形成(Bildung)は、常に遊戯(Spiel)と密接に結びついているのである。

 

 『箱』に登場する7人の男女もまた、自身の身体と20個の箱というシンプルな素材を用いて、様々に戯れる。ただし、その「あそび」は、決して不真面目で粗雑なものではない。この上なく真剣に、張り詰めたような緊張感を持って行われる。恐らく彼らには、「少しでも他の共演者の動きに干渉するような時は、その場で止まれ」という指示が出されているに違いない。また直方体の箱を縦に置き、その上に俳優が乗るというような危険な場面では、個々の俳優の動きが緻密に計算され、何度も修練されたものである事が見て取れる。「箱を動かす」という単純な動作ではあるが、危険を避けるために多大な労力が費やされているのである。もちろん時には、特に後半部で俳優が疲弊してくると、見ていて肝を冷やすような瞬間も生じる。しかし、それもまた――上演が崩壊しないギリギリのレベルで――この「あそび」の不確かな魅力を生み出しているとも言える。

 

 開演して一時間が過ぎた頃、俳優達が服や身に着けているものを交換する場面がある。各俳優の外見的なアイデンティティが混ぜ合わされ、再構成されるのだが、ここでは遊戯と演技の関係がテーマ化されていると考えられる。西郷信綱が「古代においては、遊びとは日常の仕事をやめて何かを演じることだった」と言うように、またドイツ語のSpiel、英語のplayが「遊ぶこと」であると同時に「演じること」であるように、「あそび」とは、他なるものへのトランスフォームであり、自己のアイデンティティを問い直す行為でもあるのだ。ストアハウスカンパニーの『箱』が、シーシュポスの岩のような終わりなき苦行を思わせるのと同時にどこか愉悦を覚えさせるのは、こうした「あそび」を通じた自己と世界の問い直しが行われるからに他ならない。

 

 しかし、「あそび」はポジティヴな意味ばかりではない。終盤、死刑台を思わせる階段が舞台奥に向かって組まれ、俳優達がその階段を上っては飛び降りる場面がある。彼らは躊躇なく、次々と飛び降りていく。一人の男性は最上段まで上がったものの、しばらくそこでためらうが、他の俳優達に促され、やはり飛び降りる。それはあたかも、ある共同体の破滅が一つの救済として信じられているような、恐ろしい光景である。「あそび」によって自己と世界は常に新たに作り直されていくが、その一方で人間の思考力を奪い、自己破壊へと導くのもまた、「あそび」の持つ不可思議な魔力なのである。

 

(寺尾恵仁、2015年、ストアハウス「STORE HOUSE NEWS」第3号掲載)