『姥捨』寄稿文 山口 文子

 6.5/wは、坂田尚さん、寺尾恵仁さんという類まれな演劇人夫婦のパフォーマンスユニット。彼らの家である「にわのとり」を舞台に、小規模ながらピリリとカラい奥行ある作品を手掛けている。今回の「姥捨」は「女子(自称含む)限定公演」としており、坂田さんの産後初めての作品だ。


 まず白塗りの化粧を施し<女給>となった寺尾さんが出迎えてくれた。玄関に入った瞬間から、公演は始まっている。にわのとり独特のユニークな点で、私はこの始めの一歩の瞬間が大好きだ。そして坂田さんは赤ちゃんを抱き、お茶会を始める。子育ての話なども伺いながら、しかしあくまでも「女子会」。やがて参加者は一人ずつ、テープレコードを手渡され、舞台である二階の和室へと出発する。ハンガーにかけられた親子の洋服、敷かれた布団…「プライベート」と「舞台装置」がダブることで、奇妙な感覚を覚える。実家の記憶を呼び起こすようなその布団に寝転び、カセットから流れてくる朗読(作品)に耳を澄ませる。


 旧約聖書を元にした作品だろうか。楽園を追放されたアダムとエヴァは、労働をし、多くの子どもを産み、土地に根付き暮らしている。神さまが訪ねてくると、エヴァは醜い子ども達を干し草や酒樽の中に隠し、美しい子ども達だけを紹介する。神さまは、その美しい子どもたちに「おまえは王に、おまえは貴族に」とそれぞれ祝福を与えるのだが、エヴァは神さまの慈悲深さを見て取ると、醜い子ども達も連れてくる。神さまは同様に「荷馬車引きに、下働きに」と祝福を与えてくれる。しかしエヴァは気に入らない。全員が同じ私の子どもなのに、なんとまちまちな祝福なのだろうかと。神さまは最もらしく「皆が王侯貴族だったら誰が働くのか。めいめいが身分を守り協力するべきだ」と説く――
ここで「役割分担」と「平等」という観念を同時に成立させる難しさが端的に示され、しかし子どもを持つ親というのは、そのような観念と関係なく「なんでうちの子が!」というエゴを隠せない生き物であると気付かされる。最後には神さまの正論を受け入れるエヴァは、あくまでも神話のなかの話、カセットのなかの話だという皮肉。


 この公演中「児童憲章」がスライドで映し出されている。序文に「すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める」とあり、神さまのいう<現実的な正論>とは真逆の<ユートピア的な正論>の十二章から成る。この力強い空虚な「児童憲章」は、母子手帳の裏表紙にも記載されているそうだ。なにか釈然としない気持ちになる。児童憲章自体は立派なものだ。是非そうあるべきだ。この憲章が本当に機能したならば、エヴァは、全ての親は「うちの子が!」というエゴを抱かないですむだろう。しかし日本の現状において、この憲章が実現されることなどあり得るのだろうか?


 最後は化粧を落としてサッパリした顔の寺尾さんも交じり、皆でケーキをつついた。幼い子どもがいてもアーティストとして活動できるのだという強い自負と、むしろその状況を逆手にとり作品へと昇華させるパワー。二人の娘の今後が末恐ろしい…そして、いつか彼女が大人になった頃「姥捨」は決して行われないはずだ。老人=社会的弱者という役割分担はもはや古い。相反する役割分担と平等の正しくあるべき形。未来の幸せの形を私たちが考えていくこと。それは決してエゴではないだろう。

 

山口 文子

 

(寄稿者プロフィール)

1985年生まれ、横浜市出身。脚本家、歌人。

広告代理店勤務を経て、東京藝術大学大学院映画専攻脚本領域を修了。

映画や企業PVの脚本・企画に参加。小学生の頃から短歌を始め、14~28歳までの短歌をまとめた歌集『その言葉は減価償却されました』(角川学芸出版)上梓。短歌結社「りとむ」所属。

マンガを介してコミュニケーションをはかる集団「マンガナイト」でも不定期活動中。