『待つ』寄稿文(2) 石見 舟

 本公演は東京都港区三田を中心にした2時間の上演であり、3部からなる。第1部は小生による三田の紹介である。観客は、一号線沿いに魚藍坂下へ行き、幽霊坂を上り、聖坂を下り、潮見坂を横目に再び聖坂を戻って蟻鱒鳶ルへと行きつく。第2部は地下階での芝居である。第3部はビル全体を自由に観覧し、自由に解散、という流れである。

 

 この演劇作品の題名は「待つ」とある。太宰治の短編「待つ」を扱っているというのがその理由なのだが、しかし短編の中身を覗いてみても何を待っているのか分からない。それゆえ私たちは、何を待つのか、待つとは何かをこの芝居を通して感じ、考えなければならないのだ。果たしてこの2時間私は何を待っていたのだろうか? 思い出してみよう。まず、白金高輪駅で観客を待っていた。地上に出て街を紹介する時には観客の反応を待ったり、信号待ちもした。蟻鱒鳶ルの地下へとはしごで降りるのを待った。場内に着座してからは、芝居が始まるのを待った。私はタロット占いの場面で机を出す仕事があるので、そのタイミングを待った。そして芝居が終わる。どうやらここでの待つというのと、上演で扱われている待つというのとは、何かが違うようである。私は観劇している間、真の意味で何を待っていたのだろうか?


 ひとつ思い出したいのは、演出によってここに来るかもしれない人が一人予告されていたことだ。亀塚公園横の交番から来るという、警官だ。私は、芝居を観ながら、同時に地上階にも想いを馳せていた。警官が来た場合、芝居は一時停止する。しかし地上階で待機している極右/極左青年が対応にあたってくれると言うから安心だ。彼らの熟練の技をぜひ聞いてみたい。そう、私はこのハプニングが上演として組み込まれるのを、実はどこかで期待していたのだ。上階で待機しているであろう彼らにぼんやりと想いを馳せること。それはつまり、頭上の音にも敏感になるということである。すると何が聞こえてくるか。


  以下の体験はゲネプロで一番後ろの席――つまり一番歩道に近い席――に座って観ていた時の話だ。私は頭上の音が実に鮮やかで、しかも舞台での俳優たちと調和しているのを感じた。つかつかと坂を下りてゆく靴の音、坂を上ってゆく原付。聖坂を歩いた私たちには、その音の主の前にどのような景色が広がっているのか、良く分かっている。目の前で展開する芝居の空間的・内容的閉塞感と地上の交通に関しての空間的解放感とが、あるいは、地下階の芝居で使われるテクストの歴史性と地上の、過去を気にせず進んでいく現在性とが上手く噛み合っており、第1部と第2部の接続が実に鮮やかに見えたのだった。


  さて、芝居が進むと、地上階への注意力は、ダンサーに焦点化される。あるいは、ダンサーによって、やはり地上から何かがやってくることを思い出すのだ。彼女は梁と戯れて、地上へと帰ってしまう。地下の俳優と私たちには何ももたらさないままだ。あれほど待っていた何者かは、私たちに何もせずいなくなってしまう。俳優の「待つ」ことについては後ほど詳しく述べたい。


 待つことに執着するというのは、このダンサーとの関わり方のようなのだろう。何かを待つということは、今この状況の安寧に落ち着くことではない。むしろ、今ここの酷さを知っているからこそ何かが外からやって来るのを待ち焦がれるのだ。しかし、待つことはその何かがやってくることを早めはしない。なぜならば、待つことはそれを受け止めることはするかもしれないけれども、それに働きかけることはないからだ。もしその何かが、働きかけによって早く来させることができるものなのだとしたら、待つ価値はない。すぐここへ呼びだすまでのことだ。つまり、待つことが前提とするのは、現在の欠陥を認識し、それを改善できない「私」の無能力さを同時に見出すことなのである。そのときに初めて今ここに存在していない「何か」が待たれるのであり、それは来る可能性を持つのだ。


 芝居の序盤に差し挟まれるタロット占いは、私たちが常日頃も何かを待っている者であることを気付かせてくれる。「どうしたらいいのか?」「今のままでいいのか?」これらの質問は、私たちの今を不確かなものにし、自分では決定できないという無能力をさらけ出す。そしてタロットによる答えは、占い師が宣言する通り、私たちが待っていた答えとは限らないのだ。


 では、俳優2人は何を待っていたのだろうか? そもそも待つことをしていたのだろうか? 男は太宰「待つ」の語り手である「私」を「彼女」に変換して語る。奥から少女が現われると彼は石ころを拾って壁に何かを素早く書きつける。この仕草から彼が物書きか何かであり、話の種、インスピレーションを待っていたのだと分かる。さらに坂口安吾「阿部定さんの印象」の独白では、はっきりと男性的視点から定の行為を分析し擁護する。しかしあまりに明晰な分析は、彼の独善性を暴き、自身の論理や言葉遣いに陶酔しているように見えてくる。実際、定を八百屋お七と重ね合わせる最後の文ではクライマックスを迎え、「以上!」と他の反論を寄せ付けぬように独白を打ち切ってしまうのだ。この男は先ほど分析したような意味では、真の意味では「待って」いないのである。インスピレーションの源となる少女はすぐやって来る。また、時代状況の批評を通して彼は自分の能力を誇示するのだ。


 一方、少女は待つ存在であろう。なぜならば、彼女は現在の状況に満足せず、同時にそれを打破する能力を持っていないからである。立ち入って見てみよう。まず、彼女は現在の状況に満足できない。というのも彼女の首元には赤い紐が縛り付けられており、彼女は自由な存在とは言えないからだ。また、彼女は無能力である。例えば、彼女は、男が「阿部定さんの印象」独白の折に入れるコンクリ製造機の暴力的な作動音におびえて縮こまってしまう。それに抵抗することを彼女はしない。その半面、阿部定の台詞を言う時は強い、恐れられる女のようではあるが、しかしすぐさま男の診断によって彼女が性的に受動的な存在であることが暴露されてしまう。この時、彼女は男の分析を甘んじて受け入れる存在として、分析の対象として貶められてもいる。他に、上から天の救いのように訪れたダンサーに対しては、彼女は眠っていて気付くことすらできないのだ。最後、彼女は「待つ」の独白で、何を待つのか自問自答しながら地面を手で掘る。そうして彼女がついに見つけだすのは裁ち鋏である。これを用いて首の赤い紐を切ることができるので、一見彼女に自由がもたらされ、待つ行為はここで終了したかのように見える。しかし太宰のテクストが、これが解決とはならないことを示している。彼女は今も待っていると言う。そして私たちはいつか彼女を見かける、と。彼女が最後奥へとはけていく様子は、問題の解決ではなく、むしろ問題が振り出しへ戻ったように見えた。彼女はただ待ち続けるのである。

 

 第3部は蟻鱒鳶ルの自由見学である。最上階の3階は床と壁が建設途中で天井はなく、野ざらしの状態である。外に突き出た鉄筋やポールには青い網目状の布が掛けられていた。それが芝浦から吹く風によって帆のように膨らむと、建物全体がさながら一艘の船のように思われた。実際、この建物は一帯の再開発のために立ち退きを強いられており、その妥協案として聖坂を上るという。蟻鱒鳶ルもまた、奇妙な未来を待っているのである。

 

石見 舟

 

(寄稿者プロフィール)

慶應義塾大学大学院在籍。ドイツ演劇学を専攻する。